若干、体調がよくないのですが、人の気分というのは移ろいやすく、明日は若干感情が乱れるものと予想されますので、今日のうちに書きます。
1.報告事項
一昨年に台湾から帰任後、カントー地方でぐだぐだと働いていましたが、来月末で今の会社を退職し、某晴れの国に移住することにしました。
2.経緯
(1)東京での子育て
もともと、東京で働くのが大好きでした。
台湾に赴任する前は、東京の中でも一等地のビルで働いていました。
加えて、台湾に赴任する前は、文京区に(賃貸で)住んでいました。
別に何をするわけでもなく、一等地のビルと文京区のアパートを往復するだけでしたが、それが誇りでした。
その後、台湾に赴任しました。
台湾ですか?モチロン楽しかったです。もっと台湾に居たかった。。。
ということで約3年の台湾駐在を経て帰任したとき、世は新型コロナウイルスが流行していました。
海外からの帰国者は1週間?2週間?10日間?もう忘れましたが、とにかく隔離が必要でした。
ご存じのとおり妻は猫を飼っていますが、私の実家は猫に対して不寛容ですので、隔離先は妻の実家となりました。
隔離明け後も、東京で目星をつけたアパートが、GW明けまで空かないとのことでしたので、なんやかんやで約2か月、居候ライフをエンジョイしました。
そう、エンジョイしました。
妻の実家は自然豊かなところに会って、緑がきれいでした。
あと、台湾のくすんだ空と違い、日本の空は澄んでいるのが印象的でした。
そして、水道水がおいしい。
そんなこんなで、お化け事件もありましたが、無事に新居が決まり、東京に引っ越しました。
ただ、子供ができると、文京区には住めなかったです。
文京区で、子連れで暮らせるような広い家を借りる経済力は、私にはなかったのです。
これは、すごく悔しかった。
今までの人生において、自身の経済力のなさを悔やんだのはこの1回きりです。
ということで、オフィスも都落ちですが、住居も都落ちとなりました。
さてさて、都落ちの東京での子育てで壁にぶち当たったのは、息子の体力を削るところ(=夜に寝てくれるよう、昼間、息子を遊ばせるところ)の選択肢が極めて少ないという点です。
公園ローテーションが限られているのです。
そんな課題を感じつつ、定期的に、妻の実家に帰省したり、不定期で息子をサンライズ瀬戸に乗せたりと、ちょくちょく息子を岡山に連れて行っていました。
岡山では、
・息子を母校の草むらに放したり、(※これは時系列的には東京に移る前の話ですが)
などなど、東京で遊ばせるときよりも、彼自身に裁量を与える(人口密度も少なく不審者も少ないので、手を放すことができる時間を比較的多く設けることができる)ことができました。
・・・と記載していたら、過去、これとまったく同じことを記載していました!(なので、この点についてはもうこれ以上は書かない。)
2022年8月21日の日記:東京に帰ってきました | ブログ芝 (blog-shiba-948.com)
(2)都落ちの東京にて
昔、東京について妻と話をしたことがあります。
以下、そのときの語録です。
東京で何が得られるか。自信と経験。
筆者
東京は、何でもあるけど、何にもない街。
妻
「自信と経験」と言っていますが、要するに、一等地のオフィスビルと文京区の住居を往復するのが好きなのでした。
土日も文京区を散歩しながら、ぶらっと電車で皇居を見に行くのが大好きでした。
一方、子育てが始まると、土日に行くのは公園です。
もちろん、息子と公園で遊ぶのは楽しい。
ただ、息子と遊ぶのであれば、東京の狭い公園でなくてもよい。
ということで、なんとなく、移住したいなぁという気持ちが高まっていきました。
(3)どこにも入れたくないなぁ
そんなことを考えながら、ぼちぼち働いていました。
息子は2歳になりました。
そんな中、「3歳になったらどこの幼稚園に入れるのか?」という問題に取り組む時期となりました。
いくつか幼稚園を見てみましたが、自分の心の中では、どれも微妙な感じでした。
あまり、どこにも入れたくないなぁ、と。
とはいえ、今、移住するのも急すぎるし、小学校入学のタイミングで移住しようかな・・・などと考えていました。
(4)よく喋り、よく覚える
ところが、2歳になった息子は、よく喋るようになりました。
そして、いろいろなことをよく覚えるようになりました。世界に対する解像度が急激に伸びました。
たった2歳でここまでいろいろ自我があるのだから、小学校入学前のタイミングだと、もう既に十分物心がついているだろう。
「小学校入学前のタイミングで移住させるのは、酷すぎる。」
息子の成長速度を見て、強く確信しました。
(5)気が付いたら家を買っていた
小学校入学前のタイミングが遅いのであれば、幼稚園入学前のタイミングで移住するしかない。
そう思い、昨年のゴールデンウイークにRSKハウジングプラザを訪れました。
戸建てでも建てようかと思い、概算の工事金額を聞きました。
ただ、その一方で、感じました。
「注文住宅は仕様を決めたり請負契約の内容を精査するのがめんどうくさそう。」と。
RSKハウジングプラザを訪れたことにより、戸建ての注文住宅の概算金額がわかったため、マンションとの金額の比較ができるようになりました。
ということで、気になるマンションをSUUMOで調べ、RSKハウジングプラザ見学の3週間後、マンションの内見に行きました。
マンション内見初日の夕方、
「これは?」「この中だったら、これかな?」「じゃあこれにしようか」「はーい」
ぐらいの会話で、パッと、買付証明書を記載しました。
その3か月後、気づいたらマンションの所有権が私の名義になっていました。
誰がやったのだろう。
3.仕事を探そう ~許せない会社~
気づいたら家の名義とともに何千万円もの借金を背負っていました。
このまま新しい仕事が見つからないと流石にピンチですので、岡山でも働ける仕事を探すことにしました。
以下、転職活動中の話です。
(1)許せない会社:その1
求人票に
「依頼者から顔が見える法務」という組織文化づくりに取り組んでいます!
的な記載のある会社の面接を受けました。
面接官は若手の人事担当者だけでした。
「今までの仕事の中で困難に感じたことと、それをどのように乗り越えたか答えてください。」
と言われました。
内心、何言っているの?と思いました。
今までの仕事の中で困難に感じたことなんか、無いよ。
それに、あなた、人事でしょ。仮にあったとして、説明してもわからないでしょ。
私の個人的な考えですが、中途採用の面接というのは、応募者のこれまでの業務経歴の話をもとに、転職先でも働けそうかどうかの確認・すり合わせを行う場だと認識していますので、この、
「会話の内容に中身のない、形を取り繕うのがうまい人か否かを選別する、新卒採用面接と同様のノリ」
で自分が面接されていることが、心底不快でした。
「依頼者から顔が見える法務」という組織文化づくりに取り組んでいます!
って言っているにもかかわらず、実際には、自分たちは一次面接の場に出ない。
そういうのを「顔が見えない法務」というのですよ。
(2)許せない会社:その2
To Be Written – あとで書く
4.もう、人生折り返し
息子が生まれて以降、自身の可処分時間が大幅に減りました。
息子はかわいいので、それ自体は非常に喜ばしいのですが。
仮に、健康寿命を70歳と置くと、もう、人生折り返しです。
少しでも、自分の時間を有意義に使いたいと考えています。
たとえば。
大学生のときはお金がなく、生協の食堂以外で外食することは困難を極めていました。
一方、今もお金がないといえど、ちょっとぐらいなら、外食もできる。
じゃあ、今、岡山で妻と外食したらどうなるでしょうか?
楽しかったけどお金のなかった青春時代を、強くてニューゲームしていることになりませんか?
これは、超コスパの良い人生ではないでしょうか。
発想の転換は大事です。妻がよく言う「やわらかあたま塾」です。
もう人生、あまり時間がないのだから、おもしろい方を選んで生きていきたい。
おもしろい事をたくさんしたい。
さてさて。
私なんかまったくの未熟者ですが、それでも約14年、大きな会社の最前線で、経験を積んできたという矜持が、ちょっとだけあります。
今回、それらの経験で得られた知見や地位その他諸々のもの、換言すれば人生そのものをFull Betして、青春の地、岡山に舞い戻ってきました。
転機において軽やかに人生Full Betできることは、自分の強みの一つだと認識しています。
この賭けが伸るか反るか、それは今後の頑張り次第。
皆様におかれましては、今後ともご指導ご鞭撻のほど何卒よろしくお願いします。